インタビュアー:—まず、ポーカーとの出会いを教えもらえますか?
J 僕は三重県出身で、兄を追いかけて、18歳くらいから東京に住んでました。当時、ロサンゼルスに留学していた兄の友達が、ポーカーを持ち込んで、雀荘で遊んでいたんです。僕も合流して、ポーカーをはじめたのが最初ですね。
—雀荘でポーカーを研究していたんですね。
ある時、マカオでポーカーが流行っているらしいと噂があったので、兄たちと一緒にマカオに行くことになったんです。
マカオではポーカーが流行りはじめていて、僕たちは調子がよいというか、勝ちまくっていたので、そのまま何も考えずにマカオへ住んじゃいました。僕と兄、そして友人たち、男4人の生活です。
—映画のオープニングみたいな設定ですね。
この頃は、まだポーカープレイヤーになるという概念もないし、周りにポーカーで生計を立てている人なんていなかったんです。
ポーカーを中心に、イロイロなゲームをやりながら生活してました。マカオのポーカールームは黎明期ということもあって、強いプレイヤーが少なかったり、自分もセンスがあったのか、勝ち続けてました。
サイドギャンブルで負ける度に「ブラックジャックはダメだよね!」といった話をしている内に、気が付けばポーカー専業になっていったんです。
—いわゆる「ポーカープロ」の誕生ですね。
本当の意味でポーカーと出会ったのは、グランドリスボア(カジノ)でポーカーをしていた頃ですね。
—そこがスタート地点ですか?
一番の大きなきっかけは兄です。僕が東京に出てきた理由も兄なんですよ。
—マカオに住んだ際は不安とかなかったんですか?
全くなかったんです。4人で共同生活をしていたので、心強かったんです。もし、1人でマカオに行っていたら、たぶん精神的に不安定だったと思うけど、大学生の夏休み的な感覚で過ごしてました。
—毎日が楽しかった?
一生勝てると思ってましたからね(笑)。毎日、お金を配ってる人がいるんですよ? 毎日10万円やら20万円やらって勝ってたんです。もう楽しくて、将来のことなんて忘れちゃうくらい浮かれてましたね。
—マカオには何年くらい住んでいたんですか?
4年くらいですね。半年に一度は日本に帰国していたんですけど、兄が結婚することになって、正式に日本へ戻ることになったんです。
親から1人だと心配だと言われたし、少しマカオの生活に飽きてきたのもあったんです。
兄は帰国して、今でも三重県にある「Liiink」というアミューズメントカジノを立ち上げて、ポーカー業界で生きていくことを表明して歩み始めたんですけど、僕には何もなくて、どうしようか悩んでました。
兄はマカオに住んでいた頃から、日本で雀荘を経営していたんですよ。僕は当時24歳で、そんな兄を見て経営者に対する憧れが強くあったので、再び日本を出て、フィリピンのセブ島で語学関係の事業を立ち上げることにしたんです。立ち上げは、兄に協力してもらい、途中からは1人で進めていったんですけどね。
—異国での起業は大変ですよね?
はい。事業が傾いていって、最後はフィリピンで大きな地震が起きて、従業員が辞めてしまったので、一年半程度で会社を閉めることになりました。会社を倒産させて、日本に帰ってきた時は、いよいよ積んだなと思ってました。
どうしようかと悩んでいた時に、友達がWSOPに誘ってくれたんですよ。8年くらいポーカーをやっていたのに、ラスベガスに行ったことがなかったので、気分転換として行くことにしました。
はじめて参加したWSOPのトーナメント、3,000ドルのノーリミットホールデムに出たんですけど、運よく勝ち進んでファイナルテーブルまで行ったんです。最終的に7位くらいで終わったんですが、賞金も相応にもらいました。
その他、キャッシュゲームでもメチャクチャ勝って、滞在した1ヶ月間で1,500万円くらい勝ったんです!
それが自分の中ではスゴい素敵な思い出となって、ラスベガスに住んで、ポーカーで食っていきたいと思うようになったんです。